羽

Voyage of Voyan


TOTAL ECLIPSE
皆既食あるいは完全なる失墜

太陽と月に背いて



1995年 フランス・イギリス・ベルギー
 
監督=アニエスカ・ホランド
製作=ジャン・ピエール・ラム
   ゼイ・レヴィ
脚本=クリストファー・ハンプトン
撮影=ヨルゴス・アルバニティス
音楽=ヤン・A・P・カズマレク

ランボー=レオナルド・ディカプリオ
ヴェルレーヌ=デビッド・シューリス
マチルド=ロマーヌ・ボーランジェ








L'Eternité

Elle est retrouveé.
Quoi? -L'Eternité.
C'est la mer alleé
Avec le soleil.

Arthur Rambaud




永 遠

見つけた。
何を? ─永遠を。
太陽とともに消える
あの海、その瞬間。






羽ロング



 1873年7月10日、ブリュッセルの街路に銃声が響いた。

 19世紀末は「頽廃の時代」だった。パリにはハッシーシュとアブサンが、ロンドンにはオピウム(阿片)とジンが、甘美で危険な夢をもたらしていた。この時代を語るに、現世の苦しみを忘れさせるかわりに人間であることを崩壊させてしまう麻薬と酒の描写を避けてはとおれない。一度はまれば、重く甘く逃れられぬ深淵が口をあける、このワナを。
 “Voyan(ヴォワイヤン=見者)”とは、普通の人間以上の感覚と感性をもつ者のことだ。ボードレール(1821-1867)はヴォワイヤンとされていた。ランボーにとって、ヴェルレーヌがそうだった。ランボーは自身がそうなることを望んだ。
 しかし、これは私感だが、“ヴォワイヤンの詩”とはあの世紀末を蝕んだ麻薬と酒がもたらした幻覚だ。ボードレールが書いた色彩の絢爛豪華さが際立つ「人工楽園」も、ヴェルレーヌの音が耳元まで迫るような詩も、麻薬によって感度のベクトルが変わった視覚が、聴覚がもたらしたものだと思える。むしろ、的確な語彙を操り、その「人工楽園」を音を詩に昇華させ、人々に認めさせたところに、この二人の詩人の偉大さはあると思う。

 ランボーはヴォワイヤンをめざす。
 「今のところは放蕩のかぎりを尽くしています。なぜと仰言るのですか? ぼくは詩人になりたいのです。そしてヴォワイヤンになろうと努めています。(中略)あらゆる感覚を放埒奔放に解放することによって未知のものに到達することが必要なのです。苦悩は大変なものですが、強くあらねばならず、詩人として生まれるのでなければなりません。そしてぼくは自分を詩人であると確認したのです」(『アルチュール・ランボー』 ピエール・プチフィス著 中安ちか子・湯浅博雄訳 筑摩書房)
 彼のいうところのヴォワイヤンとは「諸々の深淵を探る潜水夫であり、未知なものの奥底から新しいものを持ち帰る」者である。そしてヴォワイヤンになるためには「『あらゆる感覚を理にかなったやり方で、奔放に解放すること』であり、自発的に放蕩に身を委ねることである。怪物じみた魂を作り出すことが問題となるのであり、『偉大な病者に、罪人に、呪われた者になること、──そして最高の知者になること』が肝心なのである」(前書より引用)という。

 ランボーが「高踏派」と呼ばれた詩人のなかでヴェルレーヌを選んだのは、彼のヴォワイヤンになるという目標を考えれば当然のことだろう。ランボーは自分の詩編を添えて、パリに出て詩人になりたい旨をヴェルレーヌに訴える。2度目の手紙ではヴェルレーヌからの返事が遅いことを責め、また詩編を添えた。
 ヴェルレーヌからの2度目の返事はこのようなものだった。
 「来たまえ、親愛なる偉大な魂よ、皆が貴兄を呼び、貴兄を待ちわびている」
 1871年9月15日ごろ、パリ・ストラスブール駅(東駅)に下り立ったランボー、16歳。迎えたのは、1年前に結婚した16歳の身重の妻とともに妻の実家に身を寄せている、禿頭の27歳の男だった。
 

十字ポイント

 当初、映画ではランボーをリヴァー・フェニックスが、ヴェルレーヌをジョン・マルコヴィッチが演じる予定だった。しかし、フェニックスの早逝で「反逆の魂」をもつランボーは実現不可能となった。かわりにランボー役に抜擢されたのは、レオナルド・ディカプリオ。映画『バスケットボール・ダイアリー』で、麻薬にとりつかれ、身を売るはめになった、実在の人物を演じた(この作品観ましたが、それがなかなかイケてました!)実績がかわれたのかも。ヴェルレーヌには英国の俳優デイヴィッド・シューリス。
 彼らが適役であったかどうかは、観た人の判断にまかせたい。

 ただ、この映画が、ランボーが、ヴェルレーヌが生きるために呼吸していた「頽廃の時代」の空気をフィルムに映していたかは、どうだろう。
 また、二人の関係は、ヴェルレーヌの妻マチルドを含めた単なる「恋愛悲喜劇」だったのか。
 ランボーがヴェルレーヌを抱いたのは、ヴォワイヤンたるための「奔放」だったのではないか。
 ヴェルレーヌがランボーを求めたのは、“愛”より以上に、彼を彼たらしめた、こらえきれない性への執着があったからではないか。私には、ヴェルレーヌという人物は、他人の姿が見えない、ただアブサンに酔うように自分に酔うタイプの人間に思える。映画のような「弱き人間」にはみえないのだ。
実際、妻マチルドとの生活がランボーとの関係で破綻し、またランボーとの関係も銃撃事件で破滅したあとも、ヴェルレーヌは弟子のリュシアン・レチノアと同棲し、パリの娼婦に翻弄される。
 彼は男性に抱かれる欲求と女性を抱く快感を行き来するバイ・セクシャルだった。

十字ポイント

 ブリュッセルでヴェルレーヌの撃った弾丸は、ランボーの左手首を傷つけた。裁判で、ヴェルレーヌは2年の禁固刑と200フランの罰金を言い渡される。
 実家へ帰ったランボーは、『地獄の季節 Une Saison en Enfer』を書き上げ、自費出版する。だが、見本刷りを受け取ると、印刷代金を払わなかった。500部の本は印刷会社の倉庫に死蔵されることになる。
 見本刷りの1冊を手に、ランボーはヴェルレーヌのいる監獄を訪ねる。門衛に託した本には「P・ヴェルレーヌへ。──A・ランボー」とあった。
 1875年3月、ドイツのシュトットガルトまで自分に会いに来たヴェルレーヌに、ランボーは『イルミナシオン Illumination』の草稿を渡し出版を頼む。もしかしたらヴェルレーヌの手元に置かれたままになったかもしれない『地獄の季節』そして『イルミナシオン』。今、我々がこの2冊を読むことができるのは、ヴェルレーヌのおかげだ。見本刷りや原稿を大切にし、世に出したことには、ヴェルレーヌのランボーに対するエピタフ(記念碑)的な意味があったのかもと思う。それは同じ詩人、自分を慕ってくれた者、そして才能ある芸術家への、ヴェルレーヌの愛の表し方ではなかったか。

 すでに1873年10月、『地獄の季節』を最後に筆を折ったランボーが、詩人であったのはたった3年間だった。彼は放浪に放浪を重ね、「乾いた魂」と呼ばれた37年の人生を終える。その人生を「奇跡のような」と評したのは誰であったか。

 ヴェルレーヌは52歳まで生きた。今も19世紀の典型的なデカダン詩人として、高踏派詩壇の重鎮として知られている。

十字ポイント

 映画では、晩年の落ちぶれ疲れ果てたヴェルレーヌの元に死せるランボーが訪れる。

I found it.
What?
Eternity! It's the sun in gold. It's the sea.

「見つけたよ」
「何を?」
「永遠を。それは太陽が黄金に溶けるあの海だ」

 




羽ロング


Paul Verlaine ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)

 母と従姉に溺愛され、気弱な性格に育つ。パリ市役所に勤めるかたわら、詩を書き芸術家たちとの親交が始まる。
ランボーが手紙を送ったころは、コミューンに内通した罪をとがめられることを恐れて、市役所を退職。妻の実家にころがりこんでいた。
ブリュッセルでの発砲事件の後、カトリックに回心する。
しだいに高まる評価や名声にもかかわらず、頽廃した生活を送り、困窮の果てに死亡した。

Chanson d'automne

Les sanglots longs
Des violons
De l'automne
Blessent mon coeur
D'une langueur
Monotone.

Tout suffocant
Et blême, quand
Sonne l'heure
Je me souviens
Des jours anciens
Et je pleure;

Et je m'en vais
Au vent mauvais
Qui m'emporte
Deçà, Delà,
Pareil à la
Feuille morte.




シャンソン・ドトーヌ

レ・サングロ・ロン
デ・ヴィオロン
ド・ロートーヌ
ブレッサン・モン・クール
デュヌ・ラングール
モノトーヌ

トゥ・スフォカン
エ・ブレーム、カン
ソン・ラール
ジュ・ム・スヴィアン
デ・ジュール・アンシアン
エジュ・プリュール

エ・ジュ・マン ヴェ
オウ・ヴァン・モヴェ
キ・マンポルト
デサ、デ
パレイユ・ア・
フィーユ・モルト



秋の歌

秋の日の
ヴイオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うらがなし

鐘の音に
胸ふたぎ
色かえて
涙ぐむ
過ぎし日の
思い出や

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
飛びちらう
落ち葉かな



(『サチュルニアン詩集』Poèmes saturniens(1866)所収 訳:上田敏『海潮音』)

などの詩で、日本にも知られた詩人。特に音の描写にすぐれ、また詩自体も音楽的韻を踏んでいる
(踏韻のすばらしさを知っていただくため、あえて読み方をつけてみました)。

Il pleure dans mon coeur

Il pleure dans mon coeur
Comme il pleut sur la ville;
Quelle est cette langueur
Qui pénètre mon coeur?

ô bruit doux de la pluie
Par terre et sur les toits!
Pour un coeur qui S'ennuie
ô le chant de la pluie!

Il pleure sans raison
Dans ce coeur qui s'écoeure.
Quoi! nulle trahison?…
Ce deuil est sans raison.

C'est bien la pire peine
De ne savoir pourquoi
Sans amour et sans haine
Mon coeur a tant de peine!




[イル・プリュール・ダン・モン・クール]

イル・プリュール・ダン・モン・クール
コム・イル・プリュ・シュル・ラ・ヴィル
ケル・エ・セット・ラングール
キ・ペネェトル・モン・クール

オ・ブリュイ・ドゥ・ド・ラ・プリュイ
パール・テル・エ・シュル・レ・トワ!
プール・アン・クール・キ・サンニュイ
オ・ル・シャン・ド・ラ・プリュイ

イル・プリュール・サン・レゾン
ダン・ス・クール・キ・サンクール
クォワ! ヌル・トライゾン?…
ス・デュール・エ・サン・レゾン

セ・ビアン・ラ・ピール・ペン
ド・ヌ・サヴォワール・プルクォワ
サンザムール・エ・サン・エン
モン・クール・ア・タン・ド・ペン



巷に雨の降るごとく

巷に雨の降るごとく
わが心にも涙ふる
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?

やるせなき心のために
おお、雨の歌よ!
やさしき雨の響きは
地上にも屋上にも!

消えも入りなん心の奥に
ゆえなきに雨に涙す
何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?
この喪そのゆえの知られず

ゆえしれぬかなしみぞ。
げにこよなくも堪えがたし
恋もなく恨みもなきに
わが心かくもかなし



(『無言の恋唄』Romances sans parole(1874)所収 訳:堀口大学)

Il pleut doucement sur la ville, (Arthur Rambaud)と、ランボーによるタイトル書きがあるこの有名な詩は、発砲事件ののち監獄で書かれたといわれる。
フォーレとドビュッシーによって曲が作られた。


十字ポイント


Arthur Rambaud アルチュール・ランボー(1854-1891)

 アカデミー主催のフランス六県リセ及びコレージ学力コンクールで、ラテン語の創作詩で一等賞に推される。フランス語で書いたオリジナル詩を雑誌に送り掲載されたことも。
 「神童」といわれた彼だったが、15歳頃から家出を繰り返すようになる。1871年、事実上ドイツ政府であるヴェルサイユ政府からの独立をうたってパリ・コミューン勃発。ランボーは「革命散兵隊」に加わり銃をとるが、散々な経験をし、コミューンに失望して故郷シャルルヴィルに帰る。
 友人の勧めでヴェルレーヌに手紙を送ったランボーは、1871年、ようやくパリに落ち着くことができた。だが彼の「奔放なふるまい」はパリ詩壇に眉をひそめさせることに。
 妻を捨てたヴェルレーヌとともにベルギー、そしてイギリスへ旅行する。しかしロンドンで生活するうちにヴェルレーヌと不和に。一文無しで置き去りにされる。
 ブリュッセルで再会した二人だが、泥酔したヴェルレーヌに撃たれる。ヴェルレーヌは逮捕され、ランボーは実家に戻る。『地獄の季節』自費出版。
 1875年に刑期を終えたヴェルレーヌに会って『イルミナシオン』の原稿を渡してから、ランボーの放浪が始まる。この年、徒歩でアルプスを越えてイタリアに入るも、日射病で倒れてフランスへ送還。スペインのカルロス党の軍隊に志願する。
 1876年にはオランダ軍で兵役につき、スマトラ島での反乱鎮圧のため航海に出るが、バタビア(ジャカルタ)で脱走。シャルルヴィルに帰還。
 1877年から79年まで、ウィーン、ババリア、ハンブルク、ストックホルム、アレキサンドリア、ローマ、ハンブルク、スイス、エジプトをわたり歩く。曲馬団の会計士などをしていた。キプロス島で石切り場の現場監督となる。
 1880年、マズラン・ヴィアネ・バルデ商会に就職し、アデンの代理店からハラールの支店長に。
 1883年からは南部アビシニア(エチオピア)などを旅し、仏国地理学会に報告書を提出したり、アビシニア王メネリック相手の武器取引の隊商を編成したりする。アビシニアを旅したのち、ハラールに自分の商会を設立し、アフリカに住み着く。アビシニア王家の御用商人となる。
 1891年2月、右膝の動脈が腫れて硬直。歩行が困難になり、マルセイユにて右足切断。8月、再入院。11月10日、全身転移癌で死亡。





参考文献:『知られざる芸術家の肖像 伝記映画を見る』 柳澤一博 集英社
『フランス名詩選 』 安藤元雄 入沢康夫 渋沢孝輔・編 岩波書店
参考サイト:
アルチュール・ランボーについて
Arthur Rambaud

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Wrote 12 January 2002


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