ポイント

"Jesu Joy of Man's Desiring"
主よ、人の望みの喜びよ

『夢の果て』 北原文野




 「人生を変えた一冊」なんてよく言われますが、幸か不幸か、私にはそんな“一冊”はないです。
例えば『しろいうさぎとくろいうさぎ』や『ぐりとぐら』のように、幼い頃の思い出のなかに沈着している絵本があります。
家の近くの児童図書室の湿気を含んだ本の香りとともに、『シャーロック・ホームズの冒険』や『怪盗ルパン』の、触れるだけでゾクゾクっとした「恐い世界」への興奮を思い出します。
高校時代は、てっきり民俗学の本だと思って借りた『エジプト十字架の謎』からエラリー・クイーンにはまり、素直でないモノの見方を身につけました。

 本は知らない世界への入り口であり、ときには何か爆発しそうな心をなだめる役にも立ちました。
でも、それだけ。
だから、私は本質的に「感想文」が苦手です。おもしろかった、楽しかった、興味が満たされた、役に立った、あるいはつまらなかった、時間の無駄だった。それ以上のどんな印象が、所詮“読み物”に必要なのか。
どんな形であれ、そこには書き手の自己満足が見え隠れするものを。そんなモノに左右されるなんて、“人生”ってそんなうすっぺらいものか。
 当時の私はなかなかかわいくない子どもでした。

 だから今でも不思議です。あの頃の私が、ひとつのコミック、ひとつの作品にこんなにものめり込んだということが。


月



「<Pとは…> 地上が放射能で汚染され、人間が地下都市に逃れて生きる未来の地球…。超能力者は、混乱させる者(Perplexer)、略してPと呼ばれ、恐れられていた……」 『夢の果て』より

 超能力者が疎外あるいは迫害されるという物語は、『超少女 明日香』和田慎二、『超人ロック』聖悠紀、『地球へ…』竹宮恵子から漫画を読みだした私には珍しいものではありませんでした。
 社会との交わりに悩むのは、『はみだしっ子』三原順や『ポーの一族』萩尾望都のテーマでもあります。

 では、なぜこれほど『夢の果て』に惹かれてしまったのか。

 なぜでしょうね。あれから15年経った今でも読んで感動できる作品だ、というのがすべての理由だと思うのですが。
(『夢の果て 1. ひとりトランプ』の初版が1986年3月。初版発行日より1ヵ月早い店頭置きが恒例だったので、私が手に入れたのは多分2月。…今年、ちょうど15年なんですね)

 最初は、スロウの“秘密”にドキドキしました。
言えない秘密は、多分誰でももっています。「テストの悪い点」から「ちょっとした浮気」、果ては「犯罪行為」まで。
スロウの「信用していないから言えない」と「信用しているから言えない」の揺らぎは、秘密をもつ者共通の煩悶です。
ましてや、彼の秘密はまったく彼のせいではない、神が与えた生まれながらの能力。
心中まで図った母の絶望や、出会った能力者(P)の末路を知るにつれ、バレたら死へ直結する秘密の重さが、スロウを、そして読者を、緊張感と理不尽さで縛りつけます。
バレるかバレないか、そしてバラすかバラさないか、この演出は私に島崎藤村の『破戒』を思い出させます。

 それから、人の強さにドキドキしました。
 自分を撃ったのは母か強盗犯か。母だと言えば、なぜと聞かれるだろう、聞かれたら言ってはならない答え(自分が能力者だから)に直結する。すでに強盗犯は殺人を犯し、極刑は確実。彼に罪をなすりつけても、彼の刑は変わらない。何度も何度も考えて、葛藤の末に、8歳のスロウが出した結論は…。
 この最初の選択を誤らなかったからこそ、スロウの人生は未来へ繋がったのだと思えます。私が『夢の果て』を子どもに読ませたいなぁと思うのは、「人間として誤ってはならない道」がさり気なく、しかし道標のようにはっきりと示されているからなのです。

 人間が罪のない能力者を殺していると知っても、スロウは人間に復讐しようとは思いませんでした。
能力がバレて人間に追われている能力者を一人でも多く助け、人知れずまた社会に戻る術を与えようとします。
表向きは、スロウは病院で働くカウンセラーで、人間の友人や(実は両思いなんだけど、秘密の重さにふってしまった)恋人がいる普通の生活をしています。彼の患者はもちろん普通の人間です。
表の平和な日常と、裏の命がけの救出劇。二つの世界を自然に行き来する姿は「義賊」や「英雄」にもなりそうなのに、スロウからはそんなケレンは感じられません。無事に助けられれば喜び、助けれらず亡くしてしまった時には落ち込む。決して普通の人から逸脱しない、ただならぬただの人です。

 そんなギリギリの生活がいつまでも続くわけもなく、彼はついに捕まります。ここでまた、二者択一があります。「死ねば、プライドは守られる。しかしすべての情報が抵抗なく暴かれ、匿ってきた仲間の所在もバレる可能性がある」「死にたくなければ、対能力者の特別秘密警察に入り、『P抹殺極秘計画』に協力し、能力を活かして他の能力者を捕らえなければならない」。スロウの選んだのは、秘密警察にいながら、能力者を助けるという道でした。

 スロウの前には次々に「選択」が用意されます。言うか言わないか、するかしないか、生きるか死ぬか。
能力者でなくても、我々も人生において常に選択を迫られています。スロウの迷いに巻き込まれ、読者も一緒になってオロオロと進む先を迷ってしまいます。そして、ついに下された彼の選択に共感してしまうのです。

 この物語で7歳から24歳までの生涯を描かれた青年は、能力者という設定であるだけで、普通の人間として描かれています。
例えば、ホロコーストの時代ならユダヤ人に、江戸時代なら村社会から疎外された山族に、置き換えても十分物語は成立するでしょう。
決して生活や社会との関わりを忘れない、“地に足のついた”一人の人間の描き方が、熱烈なファンを得ている理由だと思います。

 でも、それだけなら、私は『シンドラーズ・リスト』や「コルベ神父」、日本の軍属として働かされた人たちなど、現実に生死の選択を迫られた人々の物語の方に惹かれたでしょう。



月



 『夢の果て』を読んで、泣きたいほど心が満たされるのは、繋がれていく思いがそこにあるからです。

 スロウが人間を憎まなかったのは、幼い彼を引き取ったヤン医師が「能力者も人間と同じ」と心から思う人だったからです。「人間の中にもヤンのような人がいる」…人間不信ではあったものの、スロウは憎悪はしませんでした。
 助けた能力者の一人・トゥリオとの友情から、「友人同士でも言わなければわからないことがある。能力者と人間もまずは知ることから始めないと」と悟った彼は、隠していた自分のテレパス能力を全開にして、人間に向けてメッセージを送ります。「能力者は、ただ能力があるというだけで殺されている。その現実を知ってほしい」と。
 テレパス能力を買われて秘密警察に属し、妹の安全のために、能力者の“隠し事”を暴く仕事をするリー。しかし精神的に追い詰められていた彼は、ヤンの一言に救われます。その後、ヤンの養い子であるスロウに「守りたい者を守るために生き残れ」と諭し命を救ったリー。その彼にスロウは「現状を打破するもの=勇気」の存在を思い出させます。やがてリーは能力者を助けだすようになりますね。
 「能力者を助けたい」と望み、そして実現してみせたスロウの意志は、トゥリオ、瀬音、サモス、リー、クァナに受け継がれました。おそらくは、メッセージを受け取った人間や能力者にも…。

 人の生きざまが他人の人生を変える、その力。それがテーマだと上段に構えても、中身のない人生なら説得力などありませんが。
スロウの人生、リーの人生(は『夢の果て』ではなく、他のコミックや同人誌に詳しいのでちょっと反則)、ヤンの人となり、トゥリオと人間であるアリステアとの信頼関係…影響を及ぼすもの、影響を受けるものの素地がしっかり描写されているからこそ、その思いの循環に心底感動できるのです。

 豊かな水<アクア・ヴィータ>の流れのように循環する人の思い。この感動の先にあるものが知りたくて、続きを心待ちにしています。

 最後に、どうしても涙してしまうシーンがあるので、ご紹介。
 スロウが母の愛を取り戻す場面です。
 「ああ…そうだったんですね……? オレはあなたに……愛されていた…と。死ぬ時まで愛されていたと…そう思っていいんですね……? あれがあなたなりの オレの守り方……だったんですね……」

 人の思いとはかくも優しく深く、いつか我が身に還ってくるもの。
 望みに向かい誠実に歩む心こそが、喜びを運んでくるのだと。


 そして人さまの描いたものに、これほど心動かされた私も、けっこうかわいいところがあったかもと思う昨今。
 言葉は無力で、決して感動を再現し伝えることはできないと苦笑しつつ。


月


もっと知りたい!?『夢の果て』》》》 こちらへ


Dedicated to Slowe
in Comic『夢の果て』 新書館 by Ayano Kitahara
1. ひとりトランプ 2. ガラスの海 3. 夜は歌うさざなみ 4. 地下都市のトゥリオ 5. 葦のように 6. 月は銀の帆船


『夢の果て』がついにハヤカワ文庫JA(早川書房)から刊行されました!

夢の果て1巻『夢の果て 1』 発売中
  収録作品:「ひとりトランプ」「夢のあとさき」
       「フェイ」「遠い声」(旧1巻)
       「ガラスの海」(旧2巻)
  解説:清原なつの


  840円(税別) 文庫サイズ(本文408P)
夢の果て2巻『夢の果て 2』 発売中
  収録作品:「ヤン…」「地上の声」
       「夜は歌うさざなみ」(旧3巻)
       「地下都市のトゥリオ」(旧4巻)
  作品リスト


  840円(税別) 文庫サイズ(本文416P)
夢の果て3巻『夢の果て 3』 発売中
  収録作品:「葦(あし)のように…」(旧5巻)
       「月は銀の帆船〜ふね〜」(旧6巻)
  Pシリーズ最新年表


  840円(税別) 文庫サイズ(本文416P)

※ 3巻すべて裏話マンガや「おしゃべりスペース」などの描き下しが充実!
  未読の方はもちろん、旧来のファンも要チェックです。



早春 北原文野個人集
北原文野先生のファンサイトです。作品情報、同人誌情報はこちらへどうぞ。

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Wrote 9 October 2001

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