Dairy for Paranoid

FEBRUARY 2006

BACK

JANUARY


06.2.23 Thu.  楽しいのが一番!『お伽もよう綾にしき』  6:02
 ひかわきょうこの『お伽もよう綾にしき』第1巻(白泉社/花とゆめコミックス)が楽しくってしかたありませんv

 時は室町中期。清谷荘の尼寺にすずという娘が住んでいました。彼女は「もののけ」を見る以外はごくごく普通の女の子。幼いころに父母を亡くし、「もののけ」に関わる不思議体質が災いして親戚や近所の子どもに虐げられていたところを、哀れに思った昭善尼に引き取られたのでした。
 その日も近所の悪ガキどもにいじめられ、「禁忌の森」から出られなくなった7歳のすずは、見知らぬ若侍に助けられます。新九郎と名乗る元服したばかりの若侍は、清谷荘の惣衛門に仕官する条件として、すずの「もののけ」憑きをなんとかするよう命じられて来たのでした。やさしく頼りになる新九郎を、すずは「ととさま」と慕います。
 しかし1年半後、「もののけ」により乱世を導く妖術師・大木現八郎との戦いに赴いた新九郎は、そのまま帰らぬ人となりました。
 それから10年。昭善尼の使いで那王寺へ出かけたすずは、崖から落ちたところを旅の一行に助けられます。彼らは、跡目争いに揺れる隣国・百家荘の嫡男の清丸と母、家来の一行で、清丸の命を狙う妖術師から逃げているところでした。
妖術師が操る「もののけ」の襲撃に、新九郎から伝授された修験の法を使うすず。しかし力が足りず、あわやのそのとき、新九郎の形見の竹笛から公家装束の男が出現します。「もののけ」を簡単にいなしたその男は、新九郎にそっくりの顔と声をもっていました。
 「もののけ」に清丸を襲わせた妖術師が大木現八郎と知ったすずは、彼に会って新九郎の死の真相を突き止めたいと願います。
空を飛び、強力な「もののけ」退治の力をもつ公家装束の「狐」を、名前をつけることで掌握したすずは、波乱の道へと歩み出すのでした。

 一生懸命な女の子と、かっこよくて男気色気のある男たち。楽しくて、ほろっとさせられて、「次は? 続きは?」と夢中になってしまうストーリー。どんな年齢層の読者も幅広く受け入れる、わかりやすいセリフ回しとコマ展開。ひかわきょうこの作品は、「少女マンガってこうでなくちゃ!」という安心感と安定感が魅力です。
 特に、「おじゃる」な公家言葉を話すがために、とんでもない名前をすずにつけられ、思わずへたりこんでしまうお公家様がナイス! 「情けのうて、足の力も抜けておじゃります」なんてね(笑)。蝙蝠(扇)ひとつで「もののけ」を退治してしまう強さと、名前のギャップがいとおかし。野村萬斎版安倍清明を思わせる、立ち居振る舞いのかっこよさも注目です。記憶を失っているうえに、ちらほら新九郎の気配もある。19歳か20歳で亡くなった(とされる)新九郎の身体に飯綱狐が入り込んでるのかな、とか。気になります。

 『彼方から』の連載終了から1年余り。また楽しみでワキワキしちゃう作品の登場です。ああ、幸せv

06.2.22 Wed.  言葉は身勝手              23:52
「言葉は身勝手で、
 感情的で、
 残酷で、
 ときに無力だ。
 それでも私たちは
 言葉のチカラを信じている」

 最近、耳にして記憶に残った言葉です。朝○新聞の「ジャーナリスト宣言」。

 うん、まぁそのとおりなんですけど。今のマスコミにこんなカッコイイお題目を唱えていただきたくない、というのが正直なところ。伝えるべき情報の選択とその伝え方を間違えているとしか思えないマスコミが言う「言葉のチカラ」ってなんだろうと考えてしまうんですね。
 しかし、このたびのライ○ドアの件などで、もう一度、マスコミの存在意義と「言葉のチカラ」を認識しなおし、立ち直る決意表明であるならばなによりです。

 そう、これだけは断言しますが、ライ○ドアの株価暴落の「被害」がここまで大きくなったのはマスコミのせいですよ。もちろん、自民党も片棒をかついでおりますが、なによりマスコミの罪だと思います。今、「ライ○ドア株暴落の被害者」の言葉を放送するマスコミは、これまでライ○ドアを持ち上げてきた自分たちの報道についてどう考えているのでしょう。

 私は基本的に株で損をした方に同情しません。株は銀行預金ではないのですから、元本確保の保証がないことは最初に認識しておくべきことです。そのうえ、取引をするごとに手数料がかかるので、手数料プラス投資額を上回る株価をキープしている銘柄を常に掌握し、株価が下がる前に売り抜けないかぎり、現金としての利益はないわけです。持ち株の株数と株価から算出される「財産」は架空のものだと私は思っています。それを売りどきに売って現金化しないかぎり、実がない、と。
 もちろん、株自体にはそのときの株価という価値がついていますけど、それはあくまで「時価」ですからね。図書カードやおこめ券のような金券ではないわけです。今日は高騰していても、明日は暴落して元本割れを引き起こすかもしれない。株価の多少の高下などにビクともしない資産家や企業や機関投資家ならともかく、個人が預金代わりに取引している株式資産を「財産」と言えるのかどうか。

 株価があまり高下せず、常にほぼ一定である安定株は特別に「資産株」と呼ばれます。つまり、圧倒的にそうでない株銘柄のほうが多いということです。
 そういうところを認識というより覚悟して、あくまで自己責任で行なうのが株取引だと思うので、「証券会社が薦める株を買ったのに、元本割れした」などと言うのは間違っていると思います。自分で銘柄を調べ、「この株を買う」くらいの指示が出せない人は、損が出ても何を言う資格もありません。

 ただし、株を買う/買わないの判断の基となるのは、企業が期ごとに出す「決算報告書」をはじめとする業績報告です。そこにウソ(粉飾)があったなら、誰も正しい判断は下せません。その点で、「ライ○ドアは詐欺を行なった」という声にはうなずくところです。


 私の祖父は神戸にあった証券会社に勤めていました。その祖父は母が高校生のときに亡くなり、そのあと祖母が祖父の顧客を引き継いで株の仲介のようなことをして、母を育てました。
 そのふたりが残した家訓が「株には手を出すな」です。

 私が株というものの存在を知ったのは、高校時代に読んだ外国のミステリー小説からでした。経済サスペンスものに限らず、普通のミステリー小説にも株取引は描かれていました。そこでは、マスコミを利用して自社の評価を高め、株価を釣り上げたり、マスコミにターゲット企業の風評を流して株価を上下させたりといった「技」が、株を操作する常套手段として書かれていました。
 一夜にして大富豪を生み出し、一夜にして大富豪を裸一貫に突き落とす。小説に描かれるその騰落の鮮やかさと、究極の頭脳ゲームといった様相に興奮したものです。

 祖母がよく言っていた言葉に、「株は人気もの」があります。これは「株は人の気持ちで動く」という意味です。小説で読んだ株価操作は、まさにマスコミを利用して「人の気持ち」を操作し、その結果として株価の高下があるという図式があからさまでした。
 ただ私は小説に書かれていることはフィクションだと信じてきました。現実の株取引はもっと複雑で、一個人や一企業が「操作」などできるものではないと思っていたのです。

 「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもの。
 まさか小説に書かれた「技」をそのまま使って、株価を操作する人が現実にいたとは。というか、そういう「操作」を行なう人が表立って出てくるとは。普通、そういう人は黒幕(フィクサー)とか呼ばれて、「裏」とか「影」とかにいるものじゃないんですか(笑)。
 堀江貴文容疑者が『天才ファミリーカンパニー』二ノ宮知子(幻冬舎/バーズコミックススペシャル)を愛読していたというニュースを聞いたときは、本当にフィクションをなぞっていたのかと唖然としました(笑)。香港のペーパー会社、ケイマン諸島などでのマネーロンダリング、スイスの銀行口座、隠れ蓑の投資事業組合……どれもこれもが小説にありがちなファクターで、まさに「マニュアルどおり」という印象ばかりが強いです。
 そして「マニュアルどおり」にマスコミは動かされてしまいました。

 ライ○ドアをIT関連企業隆盛の牽引役として祭り上げるのなら、マスコミは義務として、その企業の実態を探るべきでした。「新しい企業」と銘打つからにはなおさら、その「新しさ」がどこにあるのか取材し、報道すべきでした。「報道」とは目に見えるものだけではなく、その裏にあるものを明るみにすべきで、それがジャーナリズム精神というものではなかったかと思うのです。衆議員選の前だったかに、堀江容疑者の父親がマスコミの取材に対して「裸一貫になって帰ってきたときには、迎え入れてやる」とコメントしていました。そこに「真実」があったのではないでしょうか。あの言葉を聞いて、「隆盛が報道される時期に、身内が危うく思う会社なのか」と疑問を抱いたのは、私だけではなかったと思うのですけどね。

 ライ○ドアにマスコミは踊らされ、そうしてマスコミを信じた人が株を購入したのです。「利用された」ということを、マスコミはもっと真摯に受け止めるべきではないかと思います。


<補遺>
 ライ○ドアの危うさに早くから警鐘を鳴らし、また過去の「投資ジャーナル」事件に深く関わっていた方のサイトを見つけました。ぜひ読まれてください。非常に興味深いです。
 (株)フォレスト・コンサルタンツのサイトです。
サイトトップはこちら。ライ○ドア関連については、「ホリエモンの錬金術」に書かれています。


蛇足。
 さて、ライ○ドアに関するマスコミの罪について長々書きましたが。実はこれにも功罪の「功」があったりします。

 「金は天下の回りもの」と言われますが、まさにお金は「回ってなんぼ」のシロモノです。
 銀行の預金の金利がないに等しいものとなり、いつ銀行がつぶれるかわからないという危機感があったバブル崩壊後。人はお金を銀行に預けず、自宅に置くようになりました。これが「タンス預金」です。

 さて、企業が営業するには資金が必要です。人を雇うお金、施設を作るお金、原料や仕事に必要な機材を買うお金。ものやサービスを提供して利益を得る前に、まず買わなければならないものがイロイロあります。そのために自己資本に加えて、銀行からの借り入れや株主からの投資が必要になります。
 企業によっては、自己資本と営業利益が支出を上回り、銀行からの借り入れや投資に頼らなくても営業できているところもあります。しかしほとんどの企業は常に銀行からの借り入れや株主からの投資、すなわち借金をしながら営業しているわけです。

 ところで、企業に貸し付けられる銀行のお金には、当然、個人の預金も含まれます。銀行は企業にお金を貸し、企業は借りた金額に応じたマージンや利率を払います。そこから、個人の預金に対して利率がつくわけです。
 しかし個人が銀行にお金を預けなくなったおかげで、銀行は企業に貸し付けるお金に困るようになりました。ないものは貸せないわけです。もちろん、タンス預金のせいだけではなく、貸し付けたお金が戻らない不良債券に圧迫されたとか、まだ他にもいろいろ理由はあるでしょう。 が、とにかくお金の流れが止まってしまったということが重大なのです。

 個人はお金を自宅で守り、銀行は貸し付けを渋る。困るのは企業です。利益を生み出したくても、人を雇うお金、原料を買うお金、施設や機材を動かすお金がなくては営業できません。企業が利益を生まないかぎり、そこで働く人は給料も下がるし、最悪、解雇されます。営業できなければ、会社は倒産します。ますます社会不安は増し、個人は今ある財産を自分で守ろうとし、銀行もこれ以上の損を出さないように自己資本を守ろうとします。
 おかげでみごとな膠着状態。

 そこへ風穴を開けたのが、個人投資でした。今までは専門家や資産家、企業・機関投資家だけのもののようだった株取引に一般人がどんどん参加するようになったのです。

 株の購入とはイコールその企業への投資、すなわち「あなたの会社は利益を上げそうだから、私のお金を使っていいですよ。その代わり、利益が出たら見返り(=配当金や株主優待)をくださいね」という取引です。企業からは「あなたに出していただいたお金は、当社のこれだけの部分に相当します。その証明です」ということで、証券すなわち株券が発行されます。
 まあ、お金の貸し借りの証明書みたいなものですが、普通の貸し借りと違うのは、出したお金すなわち元本が保証されないということです。

 企業の価値というのは常に流動しています。その価値を決めるのは、企業ではなく、言ってしまえば「世界」です。その企業の商品がどれだけ売れているか、サービスがどのくらい価値があるか、その評価が株価という値に表れます。次の瞬間、ライバル企業がもっといい商品、もっといいサービスを売り出す。そうすると、今まで一番のシェアを誇っていた企業の商品やサービスは2位、3位に落ちてしまい、それとともに企業価値も落ちます。
 もちろん、実際の市場はもっと複雑で雑多なファクターのなかで、企業価値すなわち株価が目まぐるしく動いています。

 余談になりましたが。
 企業はほしいお金を個人から出してもらえるようになりました。企業が営業し、利益を上げれば、雇用者に払われる給料も上がります。家庭ではお金を商品購入に使うようになり、それが消費を押し上げ、企業が潤います。企業が潤えば、銀行もまた利益を上げなければならない事業ですから、お金を貸すようになります。お金を貸せば、マージンや利率が返ってきます。それにより、預金利率も上がれば、個人の預金も銀行に戻ってきます。個人の預金が戻れば、銀行はもっとより多くの企業に多額の資金を貸し付けることができます。

 とまあ、ずいぶん単純化してしまいましたが。言いたいことは、お金というのは循環しないと増えないということです。
 その突破口を開いたのが個人投資家の増加であり、今現在も個人投資家を増やしているのは、インターネットの存在と、マスコミによる個人投資奨励の風潮づくりです。テレビや雑誌などで、「個人投資マニュアル」的な特集をよく組んでますからね。
 そのきっかけになったのが、ライ○ドアや楽○、ソフト○ンクといったIT関連企業が、インターネットの活用の幅を広げたこと。ネットによる株取引を実現させたことが、個人投資を一気に引き上げたのですから。
 まあね、見方を変えれば、タンス預金を狙い、株取引に引きずり出したといえなくもないですよ。でも経済は、泳ぎ続けていないと死んでしまうマグロのごとく、常に動き続けていないと滅びるのです。一度は膠着状態に陥った経済を、機に乗じて再び動かした功績はたいへん大きいと思います。

 ライ○ドアの一件で「個人投資を始めたのが悪い」とか、「ITベンチャー企業はみんなうさんくさい」とか、そういう過った見方に流れないといいがなあ。ソレとコレとは別の問題なのよ。と思いつつ、ニュースを眺める昨今です。


 私は経済専門家でもなければ、株に興味があるわけでもないので、上記、間違った解釈や誤解のある表記があるかもしれません。
問題だと思われましたら、メールフォームにてご指摘いただけましたら幸いです。

06.2.20 Mon.  バレテーラの真相            3:07
 2月9日付の「日記」を見た友人からメールが来ました。「あの日記、気持ち悪い。なんか狙ってる?」。気持ち悪いって、気持ち悪いって、気持ち悪いって……(以下、エコー)。
 でも微妙にバレテーラ(笑)。
 なにかを狙ったってことはありません。でも「友人宛」と言いつつ、実はここを訪問された方みなさまに宛てて書いたものでした。

 真面目な話をしましょうか。
 私がネットに出入りするようになって5年以上が経ちました。最初は右も左もわからないありさまでしたが、今ではそこそこ、ネットとのつき合い方がわかってきたような気がします。というか、ネットとの距離の置き方、ですね。
 以下は、私が常に自重し、自戒し、自省すべきとしていることです。なので、とりあえず自分だってできていないと重々承知のうえ、棚上げして語らせていただきます。でないと、項目語るたびにいちいち「いえ、私もできてないのですが」と断わりを入れなければなりませんので(苦笑)。

 ネットを徘徊するなかで、私が気になっていることがふたつあります。そのひとつは「メディア・リテラシー(media literacy)」の問題です。
 「メディア・リテラシー」とは、狭義では「与えられた情報を取捨選択し、活用する能力」のことです。広義では「メディア(情報媒体)を使いこなす能力。それぞれのメディアがもつ特性や利用方法を理解し、自分の考えを適切に他者に伝達する能力、また与えられた情報を取捨選択し、活用する能力」のことですが、とりあえず狭義で考えてみましょう。
 これはネットでいうなら、「ネットで目にする情報を鵜呑みにしてはいけません」ということです。もっと言うなら、「その情報を信じる前に、少しは自分の頭で考えましょう」ということです。

 ネットが普及する前、私たちに情報をもたらすのは新聞や雑誌、テレビ、ラジオでした。情報は新聞社、出版社、放送局に集約され、それぞれの会社や媒体がもつ「規定」でふるいにかけられ、記者やジャーナリストといったプロの文章書きの手でニュースとして掲載されたり、放送されたりしてきました。
 そこには会社や媒体の方向性で若干の脚色があったり、取りこぼしたニュースや隠されたニュース、偽造されたニュースもあるにはありました。
 しかしそれらのメディアは情報媒体の名誉として、真偽や倫理上の判断、表現の吟味、わかりやすく誤解されにくい文章を心がけてきたのです。
 受け手である我々はいくつかのニュース番組や新聞、雑誌を見て、あまり考えることなく、それを情報として信じてきました。

 そこにネットが誕生しました。それは情報伝達の手段を無制限に広げることとなりました。誰もが簡単にサイトをもち、blogに書き込むようになりました。そこには、たとえば事件の当事者の生の声や、新聞やニュースでは聞けなかったジャーナリストの本音、業界のウラ話などが見られるようになりました。
 それはたしかに、新聞やニュース番組にプラスアルファの情報を私たちに与えてくれるようになりました。
 それと同時に、真偽や倫理のふるいをもたない普通の人々が、自分の伝聞を真実を確認することなく情報として書いたり、自分の考えを文章を吟味することなく書くようになりました。

 ネットの強みは即時性です。テレビよりも早く、もちろん新聞・雑誌よりも早く、情報はネットに書き込まれます。ニュースは「NEWS」と書かれますように、新しくなければ価値がありません。情報伝達の早さでネットに負けた新聞・雑誌・テレビは、コメンテーターや有識者を登場させ、社説などを充実させるようにしてきました。
 しかし、そうして「個人が思うこと」を電波や紙(誌)面に乗せてしまったがために、実は新聞・雑誌・テレビなどのメディアから、真偽や倫理のふるいが失われてしまったように感じるのは、私だけでしょうか。

 ネットの世界は元より、リアル世界でもすでに、情報は真偽の確認も曖昧なまま、なんの責任もない個人から垂れ流されています。そのなかで何を情報として信じるのか。その判断をしてくれるものはもはやありません。受け取った個人がよく吟味し、判断するほかないのです。

 私がそのあたりをちょっと怖いなと思ったのは、実は「ミュージック・バトン」の件でした。「ミュージック・バトンはチェーンメールだ」という声がものすごく多かったからです。ほとんどの方は、そう判断した根拠のないままに「チェーンメールを送ってくるなんて」と怒っていました。
 私にはミュージック・バトンはチェーンメールには思えませんでした。そのあたりはかつてこのblogに書いたとおりです。もちろん、なかには根拠を挙げて「だからミュージック・バトンはチェーンメールである」と結論づけた方もいらっしゃいました。私はそれはそれでいいと思います。少なくとも、根拠を挙げられた方は自分で考えて、そう判断されているからです。

 実のところ「ミュージック・バトンがチェーンメールか、否か」というのは、答えが出ない問題のひとつではないかと思っています。最後の「5人の方に回す」というところの解釈次第という気がするので。
 それに、これは私の主観ですが、これに関しては別にどちらでもいいことだと思うのです。「チェーンメールだ」と思う人は回答せずに、送られたことを不愉快に思っていればいいことですし。思わなかった人は楽しく答えて、ネットでの友人関係を深めるなり、広げるなりすればいいことですし。どう判断されようと、なにか問題になるような影響があるとは思えません。

 ただ、そこに「考えずにいいもの/悪いものを判断する」という現象があるのが、非常に気になったのです。

 また、「ミュージックバトンがチェーンメールじゃないのは、blogにコピペするという手段を取っているからだ」などと短絡的に思い込んでいただきたくなかったので、次の日にはmixiで起こった「blogの善意のコピペがチェーンメール化した例」を上げました。

 「ミュージック・バトン」や「善意のコピペ」とメディア・リテラシーと何の関係が?と思われるかもしれません。でも一事が万事。これらは「あなたは常に考えて、判断することを突きつけられていますよ」という、よい例だと思います。


 もうひとつは、ネットにおける人間関係の問題です。ここからが「バレテーラ」の真相です(笑)。ま、早い話が「個人サイトやblogの訪問者はもうちょっと寛大になろうや」ってことです。
 企業や団体、あと有名人が開いているサイトやblogは、社会的な責任を負っていますので、もし事実に反していること、倫理上問題があることが書いてあれば、どんどん指摘するべきだと思います。
 でもねえ、それを個人サイトやblogに過剰に求めるのはどうかと思うのですよ。だって、企業や団体のサイトやblogはプロの文章書きが書いてるんですぜ。それと同じくらいの「文章の吟味」を、一般の方に求めるのは、はっきりいって無理。みなさんがみなさん、読む人への思いやりに満ちた、心地よく、おもしろい、完璧な文章が書けるのなら、はっきり言って私のような職業=ライターは無用です(苦笑)。

 最近、旅行会社のパンフレットの校正の仕事をしました。おそらく、文章を書かれたのは旅館・ホテルの方か、旅行会社の営業の方だと思います。
 お選びできません。→選ぶことはできません。/お選びいただけません。
 地元漁港でとれた新鮮な魚が食べれます。→地元漁港でとれた新鮮な魚をご賞味いただけます。
 24時間入浴可能な温泉はいつでもお入りいただけます。→温泉は24時間いつでもご入浴いただけます。
 冷蔵庫の中のものを1本飲めます。→冷蔵庫のドリンクを1本無料サービス。
 箱庭にしつらえた屋外の露天風呂。→(どんな小人さんが入る風呂や!?)→坪庭にしつらえた露天風呂。

 やはり微妙に変なのですよ、文章が。もちろん、そういう文章を修正するために校正者が雇われるわけです。でも個人サイトやblogの文章を校正する人間などいません。微妙な文章は微妙なまま、そこにあるのです。


 <例文1>
 Mと合流。合コンって言ってたのに、なんか服暗いし、髪もいつもみたいに結んでなくて下ろしっぱなし。私とCは明るい服着て、髪も化粧もバッチリ!って感じだったのに。聞いたら、寝坊したんだってさ。「今日、何の日かわかってる!?」って言いたかったけど、ぐっと我慢。行く前から凹む。

 <例文2>
 Mと合流。会ってびっくり。シックな黒めのワンピースに、いつもは結んでる髪も下ろしちゃって、ちょっとセクシー系入ってる!? 「イメチェン!?」って聞いたら、「寝坊して、間に合わなくって」だって。今日、合コンだってわかってる!?(笑) でもそういうところがMらしいかも。

 こういう文章、私にはムリだ…… orz。
 とりあえず、同じ人について書いても、書きようでイメージが変わりますよという例(のつもり)。文章というのは、どんなに客観的に書こうとしても、どうしても書き手の主観が入ります。上の文章についていえば、基本的に書き手は「Mさん」に対してマイナス印象をもっています。でも相手への思いやり、それを表現できるだけの語彙、文章力で、読み手が受けるイメージに差ができるのです。
 もっと客観的に自分の文章が組める方は、さらに読む人を不快にしない工夫を施すでしょう。あるいはもっとおもしろおかしく書く方もいるでしょう。

 書き手の思いがどこにあるのか、またその語彙や表現力がどの程度のレベルなのかで、「事実」は脚色されます。私が、サイトの文章は事実が60%、脚色が40%と書いた真意はここにあります。

 だからまあ、本気で悪意を感じる場合はともかく、「自分がどう書かれていようとあんまり気にするな」と言いたいわけです。「日記にこう書かれた」「ああ書かれた」ということで、2ちゃんねるで「私怨」なんて言われるようなコトをやっちゃう方を見ますとね。「いや、そこは文章が下手ってことで、大目にみてあげなさいよ」と言いたくなるレベルの諍いもけっこうあるのですわ。

 思いやりを表現できない文章の未熟さが理由で、せっかくの人間関係が崩壊するのは悲しいものがあります。かといって、文章力なんて一朝一夕に向上するものでもないので、特に書き手の友人・知人のみなさんは広い心をもちましょう。案外、お互いさまだったりするものですよ。

 ただし、友人・知人について書くときには、書き手にも当然心づかいが求められます。それなくして、ただ相手に寛大さを求めるのは間違いです。
 実際、古今の作家の先生が友人・知人をネタにしたことで、訴えられたり、人間関係がおかしくなったりという例はけっこうあります。ネタにされた人の中には「私のことを書いて金儲けしやがった」と憤慨された方もいたかもしれませんが、ほとんどの場合、「プライベートを暴かれた」「いやな感じに書かれた」「本当の私はこうじゃない。誤解をそのまま書かれた」という点で不快に感じられたのだと思います。
 部数の決まっている書籍でさえ問題になるのです。それを机上の日記ならぬ、不特定多数の人が見るサイトやblogに書くことの「怖さ」は常に心に留めておくべきだと思います。


 さて、サイトやblogの管理人が絶対に忘れてはならないことがあります。それは、「自分は、日本語がわかる不特定多数に開かれたネットに書いているのだ」ということです。それはすなわち「誰にどう見られようとかまわない」という覚悟が必要だということです。

 特に小学生、中学生、高校生が運営する二次小説サイト(なんらかの作品のパロディ小説やパロディマンガ)で見るのですが、「親・兄弟・親戚・学校の先生・友だちは入室禁止」「私の友だちや知り合いは見ないでください」「友だちだったら、このサイトのこと黙っていてね」「学校で会っても、このサイトのこと言わないでね」……。
 「だったら、ネットに書くなや」と言いたい。だいたいそういうことを書く人は「検索よけ」もしていなければ、「パスワード制」にもしていません。ネットは誰もがどこにでもアクセスすることが自由というのが特性で、その特性を利用して作品なり「日記」なりを公開しているのだから、本来、誰が来ても云々できるものではないのですよ。

 学校とか親戚筋でそのサイトやblogを知ってる人がいて、本人に知らせないまま、陰で「あの子、こんなこと書いてたね」なんてウワサしていたら、私にはそちらのほうが気持ち悪いのですが。

 ついでに「黙っていろ」とか「知らないふりをしろ」という、お願いという名の強制が「あきまへん」な感じです。だって想像するだけでイヤですよ。ちょっとした世間話とか、メールとかするたびに、「この話題はサイトで見たんだっけ。書かないほうがいいな」「あ、このことは私、知らないはずなんだ」「このことは前に会ったときに出た話題だから書いてもOK」なんて、いちいち考えながら話したり、書いたりせねばならないんですよ。
 無理! 私には絶対無理!! サイト見つけたくらいでそこまで神経遣わされるのは、「思いやり」で納得できる範疇を越えております。だって私、記憶力ないんだもん。遠からず、墓穴やバケツを掘るね。絶対ね!
 まあ、これについては全然苦にならない方もいらっしゃるかもしれませんので、私だけは「無理」ということで(苦笑)。

 だから「18歳未満お断り」じゃなくて、「このサイトには18歳未満の方にはお見せしたくない表現があります。ご覧になる場合は自己責任にてお願いします」。「男性厳禁」じゃなくて、「男性には不快に思われる表現があります」。「入場制限」を書くのではなく「サイトの傾向」を書いて、サイトを見るかどうかの判断は訪問者にまかせるというのが、本来であろうと思うのです。

 「ネットに書くこと」はすなわち「不特定多数からどんなリアクションを返されようとかまわない」と覚悟することです。不特定多数の中にはもちろん、親・兄弟・友人・知人も含まれます。それを「怖い」と感じるなら、自分にとっての、ネットに書くメリットとデメリットを天秤にかければいいでしょう。メリットのほうが大きいのであれば、「怖さ」を受け入れるべきです。デメリットのほうが大きいと感じるなら、一度サイトなりblogなりを閉じて、「怖さ」と折り合う方法を考えるべきでしょう。

 まあ、でも訪問者は管理人が思うほどにはサイトやblogのことなど気にしていませんよ。自分が訪問者として他人のサイトやblogを読むときのことを思えばいいのです。読んで楽しければ、それでOK。それくらいではありませんか? 「あまり思いつめたり、思い煩ったりするだけ損」というのも、また真理です。


 というようなことが、2月9日の「日記」には凝縮されていたのです。ちょっとものわかりよくっぽく書きすぎちゃいましたかね(笑)。これで気持ち悪さは少し解消されましたでしょうか? ふふふ。>H川さま
 私もつくづくあの「日記」は気持ち悪かったので、こういう形で書くことができてよかったです。聞かれでもしないかぎり、こんな長文書かないし(笑)。そんなわけで、ありがとうございました。

06.2.13 Mon.  SF邦画の怪作!『CASSHERN』      4:52
 「たった一つの命を捨てて、生まれ変わった不死身の体。鉄の悪魔を叩いて砕く。キャシャーンがやらねば、誰がやる」。

 2004年の春先に吉田竜夫原作、タツノコプロ制作のTVアニメ『新造人間キャシャーン』の実写映画化の話を聞いたときは、「あれを実写化〜?」なんて半信半疑でした。完成したと聞いたときも、B級特撮映画になっていそうな予感満々だったんです。監督が、宇多田ヒカルのご主人でフォトグラファーの紀里谷和明というところも「話題先行」という気がしたんですよね。

 ちょうど12日の「日曜洋画劇場」で(洋画じゃないのに)『CASSHERN』が放送されたので、「実写の鉄也くんってどうなってるんだろう」という興味だけで見てみました。
 ……いや、あなどってました。たいへん申し訳ない(深々)。

 印象としては「キャシャーン meets 押井守」。『イノセンス』の世界に、ベトナム戦争とジェノサイドと救世主物語を叩き込んだら、こんな映画になるかもしれません、という。

 とても言い表わすのが難しい映画です。そこがあまり表立った話題にならなかった要因かなあと思います。ヒットする映画というのは、わりと簡単な言葉でその映画全体を表現しやすい傾向があります。わかりやすいストーリー、系統がはっきりしている映像、文章化しやすいテーマなどなど。
 その点、『CASSHERN』は、たとえばあらすじを書いてくれと言われれば書けますが、この映画全体について簡単に説明してくれといわれると、「う〜ん」とうなってしまいます。はっきり言って、簡単には無理。


 東博士は、人類の源である「オリジナルヒューマン」の細胞を培養し、組織や臓器を作りだすことで、病気の完全治癒や延命を実現しようとします。けれどもその研究は、クローン技術が席巻している科学界では異端であり、博士は自分の理論を現実化するだけの研究施設も費用も得られませんでした。そこへ手をさしのべたのが軍部でした。
 東博士の息子・鉄也は、戦時下にある国を顧みず、ただただ研究に没頭する父を嫌悪していました。父の研究が、人類の救済ではなく、不治の病にある妻・ミドリを救うためだけにあることを知っており、いまだにそれさえ成し遂げられないことを不甲斐なく思っていたのです。
 父への反発心から鉄也は婚約者・上月ルナを残して、激戦区である第七管区に出征します。山岳地帯の中の小さな村(チベットのようなイメージ)で、上官から原住民の女性と赤ん坊を殺すように命じられながら「できない」と脅える仲間の兵士をかばって、母子を撃つ鉄也。そのとき、彼の心の中に「戦争はお前が考えるほど、甘いものじゃない」という父の言葉が甦ります。
 その後、鉄也は、母親に死なれて泣く原住民の子どもを抱き上げようとしたとき、子どもに仕掛けてあった爆弾で命を落します。

 東博士に食事に招待されたルナとルナの父親であり、アーマードスーツの研究者である上月博士が東博士の研究所を訪れたとき、突如、天空から巨大な槍のような物体が降り、研究所を突き破りました。雷のような光が、その物体を伝わって研究中の臓器や体組織の浮かぶプールを打ったとたん、それまで機能しなかった細胞が活性化し、バラバラだった臓器や組織が次々に「人間」を形づくりはじめました。
 これまで一度も成功しなかった臓器の活性化と、組織の結合を目のあたりにする東博士と上月博士。その前にうようよと誕生していく「新造人間」たち。それを見た、研究所と軍部の仲介者・内藤は慌てて軍を緊急配備します。生まれたばかりの「新造人間」たちは逃げるという意識をもつ前に、ジェノサイドさながら次々と殺されていきます。
 しかし逃げのびた者もいました。ブライと3人の新造人間たちは、研究所から脱出する途中、鉄也の訃報を聞いて研究所にやってきたミドリをさらい、第七管区へと向かいます。

 研究所に運ばれてきた鉄也の死体を、東博士は謎の物体が突き刺さったままのプールに沈めます。やがて目を開けたものの、臓器の異常な活性に苦しむ鉄也を、上月博士は自分が開発したアーマードスーツによって外部から身体の組織を押さえ込むことで救おうとします。

 山岳地帯の奥地に放棄されたロボット製造工場を見つけたブライたちは、そこを本拠地に、自分たちに生きることさえ許さない人間を滅亡させようとします。その一歩として人間の科学者たちをさらうことに決めた彼らは、上月博士にも目をつけます。
 上月博士の研究所が襲われ、博士とルナに危険が迫ったとき、目覚めた者。それは新たに人ならぬ力を得た鉄也でした。


 ここまで書いただけで、かなり原作のTVアニメと違うことがありありですね。このあと、鉄也とルナはブライ率いるロボット軍団と戦い、人間にも追われながら、第七管区へと向かいます。かつて自分が兵士として原住民を殺した地で、そこに住む医者に救われた鉄也は、原住民たちの「救世主(キャシャーン)」になることを決意します。
 やがて明らかになる「オリジナルヒューマン」とブライたち新造人間の関係、そしてブライと鉄也の間に横たわる「過去」の因縁。

 最後に物語は円環を描き、カタストロフを迎えます。まあ、そのラストたるや、私には『伝説巨神イデオン 発動篇』並みの衝撃でございました。思わず唖然としたもんね。あの雷を発する物体は、『2001年宇宙の旅』のモノリスですかい。
 と言いつつ、エンディングロールを観ながら、不覚にもぐっとキテしまいました(長々と書きつらねましたが、ウロ覚えの部分も多いうえに、ラストは私の解釈が間違っているかもしれません。真実はDVDなどでご確認くださいませ(苦笑))。

 さすがに監督がフォトグラファーであるだけあって、戦争部分の描写はピュリッツァー賞や「LIFE」誌で見たようなモノクロ基調のフォトジェニックなものでした。
 それに対して、東邸や上月邸の風景はステンドグラスのごとく繊細で美しく、アールヌーヴォーを彷佛させる、光の効果をよく考えられたファンタジックなもの。
 ブライが操るロボットたちの行進は、アニメ『キャシャーン』のロボット行進シーンで見たような影使いやコマ割り表現が使われていたり、キャシャーンお得意の手刀部分では機械の部品飛び散っていくさまをストップモーションでキメて見せたり。鉄也とブライ、バラシンの戦闘シーンもアニメの『キャシャーン』的な戦い方をよく再現したものになっていたと思います。

 スペクタクルアクション映画なのか、映像美を追及したアートなのか、哲学的なテーマを秘めた啓蒙作品なのか。そのあたりが判然としないというか、混沌としているところが、「なんと表現したらいいのか、わからない」部分でありましょうか。
 ついでに私には、ロボットやクローン、都市内の移動に飛行艇を用いるくらいの技術がある未来世界の戦争が、なぜ拳銃やマシンガン、手榴弾が中心のベトナム戦争並みの装備なのかというところに違和感があったんですよね。昨日今日始まった戦いならともかく、随分長らく戦争しているみたいでしたし。化学より工学が発達しているような世界観でしたし。現実にロボット兵がアメリカで開発され、実用化されているニュースなど聞くので、「この世界観で、兵士がこの装備?」と思ったのでした。
 どんなに文明が発達しても、結局、人間同士の戦いは人間対人間に帰結するというメッセージだったのでしょうか。

 そうそう、「キャシャーン」の由来は「宝の在り処、すなわち平和(CACHE)に導く(ERN)の者」ということもはじめて知りました。

 怪作には間違いありません。特に寺尾聰(東博士)と唐沢寿明 (ブライ)は怪演としか言えません。絶対、主人公はこのふたりです(笑)。
 宮迫博之(アクボーン)、及川光博(内藤薫)も味のある演技で印象に残りましたし、大滝秀二(上条将軍)の憎々しさったらもう。穏やかな顔にあの声で悪役なんだからたまりませんわv
 そして大好きな小日向文世(上月博士)も、『木更津キャッツアイ』での変なお父さんとはまた違った常識あふれるいいおじさんで、偏屈・変人が集まっている中で心のオアシスでしたv 狂気を奥に秘めた偏屈な東博士も上月博士には、部外者禁止の研究室に通したり、進まない研究の愚痴を言ったり、和んでみたり、鉄也を預けたりしてるもんね(このまま行くと、変な妄想が生まれそうだからストップ!)。
 バラシン(要潤)やルナ(麻生久美子)、ミドリ(樋口可南子)たち、鉄也(伊勢谷友介)に深く関わる人々も、特撮につきものの過剰演技ではなく、自然体で演じられていたのが、私には好感がもてました。
 伊勢谷友介がもうちょっと鉄也に入り込んでくれていたらもっとよかったのにと、それだけが残念。でもそれは周りがスゴすぎたせいかも。なにせ、よくぞここまで集めたというくらい豪華な俳優陣。そしてそれが適材適所だったのは、監督のキャスティングの才能ですよね。

 スワニーもフレンダー(同じ名前の犬は出てきますが)も登場しませんが、「SF邦画の怪作」を観てみたい方はぜひ。『さよならジュピター』あたりのショックで「邦画のSFはダメ」と思われている方は開眼するかもですよ。

06.2.11 Sat.  マグノリアよ、マグノリア        5:08
 サイトのTOPを変えました。ここのところ、わりと真面目にサイトの手入れをしております(笑)。

 旧TOPの木蓮のイラストの下に添え書きしていた言葉、「Magnolia is My Destined Flower.(木蓮は私の運命の花)」。あのTOPを作ったとき、少々思い出すことがありまして、この言葉を添えました。

 私が生まれたとき、両親は木蓮の木を庭に植えました。「あれはあんたの木だ」と言われて育ったので、私にとって木蓮の花は「私の花」なのです。ちなみに弟のときは黒竹でした。そして、この黒竹は植えてから数年後、あっさり枯れました(苦笑)。
 私の木蓮は日当たりの悪いところに植わっていたにもかかわらず、実家を建て替えるときまで、毎年、花を咲かせていました。
 実家の古い家屋を壊したとき、邪魔になるので根から抜いて別所に移植したのですが、結局、枯れてしまったそうです。移したのが悪かったのでしょうか。それとも寿命だったのでしょうか。いずれにしても残念なことでした。

 実家が完成したあと、植木屋さんが造園に入りました。その植木屋さんは、枯れた木蓮の代わりに新しい木蓮をもってきてくれました。ただ、枯れた私の木蓮は、木蓮は木蓮でも「烏木蓮(カラスモクレン)」だったのです。母は烏木蓮にこだわりがあるので「ふつうの木蓮ではなく、烏木蓮にしてほしい」と頼んだそうですが、植木屋さんに「そんな木蓮は知らない」と言われたのだとか。
 かくして庭にはふつうの木蓮が植えられ、そして根づくことなく枯れました。そのあと、またふつうの木蓮が植えられ、根づいてこの冬を越せるかどうかが勝負というところらしいです。

 正月に帰省したときに母からそんな話を聞かされ、なぜか「あんたの木蓮を買ったとき、たしかに烏木蓮と聞いたのよ。それなのに『ない』っていうのはどういうこと?」と詰め寄られた私。そのときは「マイナーな異名かも知れないし、関西にはない種類かもしれんよ」と言ったのですが、その後、ネットで調べてみました。

 あるじゃん。烏木蓮。 Magnolia quinquepeta 'Nigra'。
 木蓮に比べて全体がほっそり小柄で、生け花にも使われるそうです。ネットの写真を見ても、間違いなく私の木蓮です。早速、母に電話したところ、「やっぱりあったのね」と言いつつ、「もう新しい木蓮が植わっちゃってるからねえ」とちょっと残念そうな返事。このまま庭の木蓮が根づけばよし。もしまた枯れたら、そのときは考えるとのことでした。
 私にとっての「私の花」は初代烏木蓮ただ1本なので、そういう意味では次代がふつうの木蓮でも烏木蓮でもかまわない感じです。明石海峡から吹く潮風のせいで、ちょっと塩分が混じっている土に根づいてくれるなら、それはそれでご縁なので、そのままいついてください(笑)。
 ただ、烏木蓮の、空に向かって立ち上がる、黒に見まがう濃紫の花の潔さと妖しさはふつうの木蓮にはないものですから、いつか烏木蓮も加えられたらと思います。

 ものの本によりますと、「烏木蓮」こそ「木蓮」であるという説も。
 とりあえず「烏木蓮」とはこういう花です。
 http://aquiya.skr.jp/zukan/Magnolia_quinquepeta.html
 花群はこちらサイトページの中程の写真で見られます。
 http://www.icsgold.net/newpage2.htm
 ふつうの木蓮よりは花色が濃く、また花弁の表と裏の色が違います。表は白く、裏は紫。この色が重なるさまは、『源氏物語』の中で源氏の君が明石の上に選ばれた、濃い紫と白の襲ねを彷佛させませんか。そのあたりの美意識も、母のこだわりのなかにあるのでしょう。
 英国にいた私に母が送ってきた手紙に、「今年は庭の烏木蓮の蕾が14個つきました」と書かれていたことを思い出します。

 そんな思い出も秘めて、やはり烏木蓮は「私の運命の花」であるようです。

 ところで、私は「マグノリア」と聞くと、まず花郁悠紀子の 『白木蓮抄』を思い出します。白く羽ばたく鳥の群れのような白木蓮の描写に感嘆した記憶があります。惜しくも若くして亡くなられましたが、この方もSF、ファンタジー、コメディ、そして情感あふれる人間ドラマを幅広く描かれていましたね。
 私の青春のバイブルは『はみだしっ子』であり、神は三原順ですが。萩尾望都、花郁悠紀子は「心の中の殿堂」入りの漫画家さんです。

 原稿をひとつ書き終わってメールで送付。そのまま、ずるずるとトリノオリンピック開会式(日本時間4:00AM開始)まで「日記」を書いていました。一度寝て、起きて読み返してみたら、頭抱えるほどのグダグダダメダメ文章になっていたので、全改稿。只今、13:30。
 今日は新宿で友人と飲みますv

06.2.9 Thu.  友人たちへの手紙v           6:04
 知り合いの方からメールをいただきました。「blogに雑文堂さんとお会いしたときのことを書いたのですが、よろしかったでしょうか?」。私が言ったこと、したことについてその方が書かれたことに、誤解や間違いがないか心配して送ってくださったメール。お気づかいに感謝しながら、「大丈夫ですよ」と返信しました。

 で、ひょっとして、私の知り合いでサイトやblogをもっていらっしゃる方は、同じような心配(?)をされているのかしらと思いついちゃったわけです。
 結論からいえば、私は自分がどう書かれていようとあんまり気にしません。といいますのは、自分がサイトに書くとき、仮名なのをいいことに、友人についてちょっと脚色しちゃたりしているからです。いちばん被害に遭っているのは、旅行同行率が高いKさん。ごめんなさい(深々)。ちなみに彼女は私のこのサイトを知っていますが、いい友人です。3月にも会いますよん。

 たとえば、その人の人となりや、私との知り合い歴、私がその人をどう思っているかとか、そんなことは私が知っていればいいことで、サイトやblogの読者さんに公表する必要はないでしょう。友人と会った、その人がこんなことを言った、したという、自分が「これは絶対書いておきたい!」と思ったポイントを書けばいいと思うんですね。その部分だけ書くと、その人は本来のその人とは違ったイメージになるかもしれない。でも、そこのところは日常のやりとりでフォローしておけば、友情が壊れたりはしません。そのかわり、やたらな脚色は日常的に電話やメールでフォローがきく相手にかぎりますが(笑)。

 自分がそういうスタンスにいるので、知り合った方が私について書いてくださったときも、「あのときのこと、書いてくれてはるv」とおもしろがりこそすれ、迷惑だとは思いません。そのなかで書かれていることが「うん? そういう解釈しはったんや」とちょっと違和感のあるものでも、「その方にとっての、『私』というキャラクターはこうやねんな」と了解するので無問題。
 私自身でさえ全部は理解できていない「私」という人間を、多少の時間を共有しただけで理解されるとは思いませんし。また、その方が見ているのは、私が見せている一面でしかないわけですし。ましてや、それをその方がどのように受けとめられて、どう解釈されるかは、私が云々するところではないですから。

 ついでに、文章でなにかを書こうとする場合、個人がもつ表現能力の高低や、使える語彙の多少の問題で、事実を克明に描写しようとしても、文章が離れてしまうことがあります。
 それに、やはりどんな文章も読まれてこそのものですから、おもしろいように、インパクトがあるように、簡潔で短文であるように、若干の脚色は自然にしてしまうものです。研究論文や議事録、情報記事がそれでは困りものですが。でも同じ事件を扱っているはずの新聞記事が、新聞社によって違ったふうに読めるということからも、文章には常に脚色がつきものという私の主張、「さもありなん」でしょう?(笑)

 サイトやblogの文章は、事実60%、脚色40%くらいの気持ちで読んでいますので、私についても「私というキャラクター」が描かれているという感じです。まあでも、書いていただくからには、その「キャラクター」への愛がほしいかな。それさえあれば、読んでいるほうは不快にはなりません。
 まったく知らない方のblogで、友人のことをさも親し気に書きながら、なにか蔑みのような、「本当に友人?」と思うような文章に出会うことがあります。blogの書き手さんも、ましてやご友人さんも存じ上げないながら、不快になったりします。要は愛ですよ、愛(笑)。
 ま、ない愛をこめていただくのは無理でしょうから、その際はお手やわらかに(苦笑)。

 私の名前が仮名や匿名であるかぎり脚色は気にしませんが、ひとつだけ、仕事関係についての事実誤認だけは勘弁してください。これは仮名や匿名であったとしても、読んでいる私がカナシイ気持ちになります。今までなかったので、これからもないって確信してますけどね。私の知り合いの方々は本当にできた方ばかりですもん。ありがたいことです。

 わざわざ書くことでもないかなあと思いつつ。でも聞かれてもいないのに、「大丈夫ですから!(ええ、どんどん登場させてください!<心の声)」ってメール送るのもヘンでしょ(笑)。万一気にしている方がいらっしゃいましたら、ご安心を。

 ただし、これってあくまでも私の個人的主観ですから、「こう思うのがふつう」とは思わないでくださいませ。やはり我がことについて、少しでも違うことが書かれていたら不快に思う方もいらっしゃるでしょう。その感覚もまた「ふつう」だと思います。

06.2.8 Wed.  いち押し! アニメ『蟲師』       23:29
 土曜日の深夜(というか、日曜日の未明)にフジテレビで放送されている『蟲師』が好きです。
 「すごく丁寧につくられているアニメ」というのが第一印象。背景がまるで一幅の絵を見るがごとく美しく、その回の物語に合わせた色調が調整されているところがまたすばらしい。また、物語の根幹をなす「蟲」や「光酒」の表現も、原作であるモノクロのマンガ原稿からみごとに色彩化されています。決して原作のもつ味わいや空想の広がりを壊すことなく、色や動き、音をつけている点。細やかな気配りを感じます。

 そして、なんといっても主人公である、放浪の蟲師・ギンコがいいのですよ! 容姿もいいですが、声がいい! 声優ではなく舞台俳優の中野裕斗があてているのですが、間のとり方とか、ギンコの常に抑えめの感情を表現するのがとてもお上手。
 「一夜橋」の回の「あー……あせった」の間は、TVの前で暴れたくなるほどツボでしたv
 「やまねむる」の回の最後の「ないねえ、残念ながら」は、せつなさやあきらめや「でも、その人に会えて、覚えていられる」ことへのやさしい気持ちとか、いろいろな思いが混じりあっているように聞こえる、名セリフだと思います。

 どの回も好きですが、ギンコの過去が語られる「眇の魚」、ギンコの倫理観が垣間見える「重い実」、ギンコと神の手をもつ少年のやりとりが楽しい「緑の座」、冬のさなかの春景色が美しい(そしてギンコのロマンス未満の思いもちらり)の「春と嘯く」は特に好きですv
 全26話で、今週の土曜日放送分が第16話。TVでご覧になれます方はぜひチェックしてみてください。
 『蟲師』のオフィシャルサイトはhttp://www.mushishi.jp/です。


 和歌山県の知り合いの方から、お蜜柑を10キロ、箱いっぱいいただきました。これが甘くておいしいの! 毎日いただいていますv
 この方とも不思議なご縁でお会いしました。こんなにお気遣いいただいていいのかしらと恐縮しながら、ご厚意に甘えております。
 本当にありがとうございます。

 今年は私、間違いなく風邪知らずですよ!

  みかん

06.2.5 Sun.  誕生日の花束              23:36
 誕生日に大きな花束をいただきました。毎年いただきつづけて、今年で4年目。お送りくださる方のお心づかいに恐縮しつつ、やはり花束をいただくのは何にもましてうれしいことと感激しております。
 今年はオリエンタルリリーにちょっと朱色がかった赤いバラ。それに黄色の小花がついた緑がBGに入った、華やかながら上品なもの。花束を置いたとたん、ぱあっと明るくなった部屋で、またしばらく「花のある生活」を楽しませていただきます。

 ありがとうございました。

  花束  その後

06.2.3 Fri.  節分                  23:27
 本日は節分。そして○回目の誕生日。
 とはいえ、何も特別なことはなく。恵方巻を買ってきて南南東(だっけ?)を向いて無言で食べました。恵方巻は珍しいことに、さくらでんぶと玉子焼のほかはカンピョウ、ニンジン、ゴボウ、インゲンなど、野菜ばかりでできた「彩菜太巻」というもの。「しまった。よく確認すべきだった。海鮮が入ったほうがよかったな」と思いながらかじると、想像したよりおいしかったので、びっくり。どの具材もしっかり味がついていて、かえって海鮮巻より手がこんでいるかもと思いました。
 あとは、とっておきの「STEINBERGER TROCKEN 2000」(シュタインベルガー トロッケン 2000年もの 白ワイン)を開けました。「甘い白ワイン」で知られるドイツワインですが、「シュタインベルガー」はあまり甘くないので好きです。そのうえ、「TROCKEN」は「辛口」という意味。私好みのステキな味わいでしたv
 TVで放映していた『風の谷のナウシカ』の最後の部分を観たあと、『ハウルの動く城』のDVDを英語吹き替えで観ながら、ワインを楽しむ。「めでたさも中くらいなり、おらが春」。めでたくも、大過なく、またひとつ歳をとりました。

 今年ははじめて、玄関に「柊(ひいらぎ)」を置いてみました。1日の打ち合わせの待ち合わせ場所が小さなスーパーの前で、早めに着いた私は氷雨を避けるために店内へ。そこで、ひとつ198円也の「節分用柊」を買ったのでした。本当はこれにイワシの頭を刺すのですが、さすがにそこまでは……。

  節分用柊
  昨年末に昇天あそばした携帯電話を機種変更。
  カメラ付携帯にしたのですが、う〜ん、今いち。
  撮影者の腕が悪いのですorz。一応、「節分用柊」です。



Made with Stone Diary



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送