ある秋の昼下がり、スパゲッティ(恐ろしい偶然だ)を食べながらTVを観ていた私は、NHKニュースの後、この町と出会ったのです。 『世界の名城 イタリア ルネッサンスの城』 画面の粒子も粗く、オープニングの音楽がずれているような番組。その頃、イタリアにほとんど興味を持っていなかった私はチャンネルを変えようと思ったのです。しかし、食べかけのミートソーススパが私を立ち上がらせなかったため、そのままズルズルと観続けて…やがてドップリとマントヴァの魅力に引き込まれていたのでした。 本当はもっと他のことを書くつもりだったのですが、幸いにも1月3日23時(もっと早い時間にしてほしかった)に前記の番組の再放送があったので、それを中心にマントヴァという町を紹介したいと思います。 マントヴァの歴史は古く、紀元前エトルリアにまで遡ります。ローマ帝国を経て、12世紀初め、1115年マティルダ伯夫人(Markgräfin, Matilda)の死により、この地のドイツ勢力が衰え、マントヴァは北イタリアの重要都市としての歴史を歩みだします。 1163年、ロンバルディア都市同盟に加入。 1236年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に征服されます。 13世紀末、ドイツ勢力の衰退とともに、イタリア豪族とドイツ側とで激しい争いが起こり、リナルド・ボナコルシ(Bonaccolsi, Rinard)が皇帝ハインリッヒ8世によって、帝国代官に任命され、マントヴァはイタリア人によって支配されるようになります。 1308年、死の床にあったグイド・ボナコルシは、一人の修道僧に公金使い込みの噂の真偽を問われ、こう答えました。 「確かに私は自分の館を飾るため公金を使った。しかし、それはすべてマントヴァのためだったのだ」 「支配者の館」がイコール「その都市の力の象徴」になる──グイドが造ったカピターノ宮殿は、しかしボナコルシ家の力の象徴にはなりえませんでした。 1328年、グイドの弟パセリノは、ゴンザーガ家が起こした反乱で処刑されてしまいます。 ※ 今ひとつ、ボナコルシ家については理解が浅いので、誤解しているかもしれません。ご存じの方、教えてください。 マントヴァでは、ソルデルロ広場(Piazza Sordello)の上に高く1個の鉄カゴが下がっています。14、15世紀を通じて、それにはいつも死人、あるいは死にかけた人が入っていたといいます。 兄弟殺し、裏切った息子たち、残忍な伯叔父たち、不義の場で捕えられ、その罪のため殺された妻たち。君主にとって、そして市民にとっても恐怖の日々、災難の歳月がありました。 そんな時代に小都市マントヴァが、ヴェネツィア、ミラノ、ローマと肩を並べられたのは、三方を湖で囲まれているという自然の要塞のおかげと、マントヴァを双方の緩衝器として必要とするミラノ、ヴェネツィアに、ゴンザーガ家がその軍事的技量を売ったため。 勢力の均等がマントヴァの独立を保持させ、大都市国家の必要がこの都市を富ませたのでした。 マントヴァ軍隊長ルイジ・ゴンザーガ(Gonzaga, Luigi 1267〜1360)が固めた都市国家の基礎は、ルネッサンス期に入り、フランチェスコ・ゴンザーガ1世(?〜1444)が継ぎます。 彼は1392年、サン・ジョルジョ城(Castello San Giorgio)を着工。その壮大な要塞宮殿はたった5年という短い年月で完成します。この頃のゴンザーガ家の力を表しているといえるでしょう。 15世紀初め、ゴンザーガは公爵の位を与えられました。その席上、神聖ローマ帝国ジギスムントは、娘とルドヴィコ・ゴンザーガ(1414〜1478)の婚約を発表します。 この公爵冠を受ける儀式はカピターノ宮殿前で行なわれ、その模様はティントレット(Tintoretto 1518〜1594 本名イアコポ・ロブスティ 父親が染物屋tintoreであったため、こう呼ばれた)が後に絵に描きました。 サン・ジョルジョ城を含むドゥカーレ宮(Palazzo Ducale 公爵の宮殿の意)は、その名にふさわしく壮麗なもので、5名の国王を同時に泊められるだけの広さをもっていました。大小150室以上あり、この頃の著名な画家によってフレスコ画が描かれ、タペストリーの部屋、「十二宮の部屋」「鏡の間」「天国の間」「迷宮の間」などと名付けられました。それらは絢爛ながら、一つの雰囲気をもっていて、趣味よく飾られていました。 1459年、ルドヴィゴ・ゴンザーガの代には、ピウス(ピオ)2世がマントヴァ召集を行ない、マントヴァは繁栄の一途を辿ります。この時代、ペストの流行や洪水があったにもかかわらず、羊毛・絹の取り引きが繁昌し、人口は増大して4万以上に達しました。 教育に関して、男女平等・個人主義の考えをもっていたヒューマニスト、ヴィットリーノ・ダ・フェルトレの教育を受けたルドヴィゴは、ゴンザーガ一門中、最も才能に恵まれた君主でした。行動人らしい熟練と決断、学者らしい感受性を備えたルドヴィゴは、29歳のアンドレア・マンテーニャ(1431〜1506)を宮廷画家として永住させます。 マンテーニャは、レオナルド・ダ・ヴィンチを凌ぐとさえいわれた画家で、その精緻な写生と遠近法は定評があります。 マンテーニャは34歳のとき、「婚礼の間(あるいは新婚の間、新郎・新婦の間 Sala degli sposi)」を描きます。北側は「宮廷」、西側は「出会い」と呼ばれます。この絵の解釈は未だにわかっていません。枢機卿の次男の手紙(「宮廷」)と彼の迎えの図とか、長男の婚礼の図などと言われています。 15世紀後半に登場したフランチェスコ・ゴンザーガ(Gonzaga, Francesco 1466〜1519)はその妻イザベッラ・デステと共に、善政と芸術文人保護で知られています。 イザベッラ・デステと彼女の義妹でウルビーノ公に嫁いだエリザベッタ・ゴンザーガは、以後数世紀にわたって西欧の社交界を支配することになる、大きな文学的サロンの創始者でもありました。 イザベッラ・デステの息子フェデリーコが、愛人“ラ・ボスケッタ”のために建てた宮殿・テ離宮(Palazzo del Te 茶の宮殿)は、ジュリオ・ロマーノの設計による16世紀の美しい城。フレスコ画でも有名です。 プシュケとエロスの結婚を祝うオリンポスの様子を描いた「プシュケの間」、当時の王侯・貴族のスポーツや遊びを12の絵で表した「メダルの間」、マントヴァの美しい馬を描いた「馬の間」。 巨人タイタン族がオリンポスの神々に打ち倒されていく様子を描いた「巨人の間」は、忠誠心にうすい臣下に力を誇示するため描かれたものですが、それは逆に臣下や市民に対する封建王侯の恐れをも表しています。 17世紀。ピーター・D・ルーベンスが描いた「父子(おやこ)の画」――父は倉をいっぱいにし、子は倉を空にしたといわれる、その“子”ビンツェンツォ・ゴンザーガが最後の君主となります。 彼の妻マルゲリータ・ファルネーゼはマントヴァの悲劇の女主人公でした。彼女は子どもができないことを理由に離婚を迫られ、宮殿を去る時、こう言います。 「ゴンザーガの上に呪いあれ」 その思いが通じたのでしょうか。ビンツェンツォは間もなく亡くなりました。「公」の位問題や財政難のため内輪もめが起こり、その間にマントヴァはオーストリア軍に囲まれていたのでした。オーストリア軍の足音を聞きながら、マルゲリータは修道院で息を引き取ります。 18世紀、ゴンザーガ家は断絶しました。 フランス革命時代、ナポレオンによってチサルピナ共和国に編入されたマントヴァは、仏軍撤退の後、オーストリアに戻りました。 オーストリアからの自由独立運動が盛んになると、マントヴァも同調します。 1859年、サルデニヤがナポレオン3世とヴィラフランカの講和を結んだ際、マントヴァはヴェネツィアに併合されます。 1866年には、サルデニヤの建設にかかるイタリア王国に併合されました。 …そして1900年。イタリア王国では国王ウンベルト1世が暗殺され、エマヌエル3世が即位しました。時代的に、英国ではヴィクトリア女王の下、南ア戦争(ボーア戦争 1899〜1902)をやっている最中です。 えっと…何がなんだかわからない話になってしまいました。資料探しに手間取ったわりにはしまらない文章ですね。大体、聞いたとおりに書きましたが、何せ番組のビデオがないもので、アヤフヤなところが。わ〜こわい! マントヴァには紹介しました城の他にも美しい城や教会がありますし、三方が湖の地ですから霧がかかって幻想的だそうですし、一度行ってみたいですね。 イザベッラ・デステについては塩野七生さんの『ルネッサンスの女たち』を読んでください。 他の参考文献は、 『イタリア・ルネッサンス ―その歴史と文化の概観―』 J・H・プラム 筑摩叢書122 『フィレンツェ・ベニス 北イタリア』 交通公社ポケットガイド10 『図説資料 新世界史』 浜島書店 『世界歴史事典』 平凡社 『GREAT AGES OF MAN RENAISSANCE』 ライフ人間世界史5 『ブリタニカ国際大百科事典』 TBSブリタニカ 『神の代理人』 塩野七生 中央文庫 <付記> 『神の代理人』にもユリオ(ジュリオ)2世という方が出てきますが、実際ルネッサンス期には、中世から出てホッとしたとでもいうように、大義名分を掲げて趣味に走った方が多かったようです(ここまでで何の話かわかった人、えらい!)。 ピエートロ・アレティーノは、マントヴァ公に自分の気に入った少年を送ってくれるように頼んだり(ゴンザーガはわりと理解があったのです)、美女や美少年をはべらしたりしていました。 しかしアレッサンドロ6世の愚行がローマで噂にならなかったのと同じく、アレティーノのこともヴェネツィアでは噂の種にもならなかったそうです。 そもそもは「ギリシア神話」が発端というのが一説にあります。 ゼウス主神の好色は有名ですが、ある日ワシに化けてトロイヤ王子ガニュメデスをさらい、自分の酌人にしたことから、ヘレニズムを目指していた人が「神だって美少年をもっていたではないか」と始めたとか何とか。 曙の女神エオスがガニュメデスをさらってきたら、他の神々、殊にゼウスの気に入ったという神話もあります。 主神の盃に酒をつぐ名誉ある役は、ゼウスとヘラの娘ヘベのものでした。それをガニュメデスが奪ったので、ヘラは大激怒。彼を殺そうとしますが、ゼウスは先手をうってガニュメデスを星に変えました。これが「水瓶座」の伝説です。なんだかトホホな気がしますが、星座の伝説にはこのパターン、けっこうあります。 ※ 当時はこういうことに興味があったのね、ということで(笑)。水瓶座だしなぁ、自分。 |
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